(8)36協定さえあれば「包括的命令権」はあるのか?


 この相談コーナーの(1)では、「日立製作所武蔵工場田中事件(最1小判1991.11.28. 労働判例594号7ページ)で、『いわゆる36協定を締結し、所轄労働基準監督署に届け出た場合に、使用者が就業規則に当該36協定の範囲内で一定の業務上の事由があれば労働契約の労働時間を延長して労働させることができることを定めているときは、当該就業規則の内容が合理的なものである限り、それが労働契約の内容をなすから、労働者は、その定めるところにより労働契約に定める労働時間を超えて労働する義務を負う』と判断しています。これはいわゆる包括的命令権説の立場に立った判例であるとされていますが、しかし36協定さえあればそれが残業命令権付きの労働契約になっているがゆえに使用者は職務命令として残業を命じることができると解するのは、本来の労働時間規制の趣旨に反するものであると考えるべきでしょう」と書きました。しかしこの問題はこれから日本の労働者が人間らしい生活を追求するに際し、大きな障害となることは明らかです。したがって、ここでは少し詳細な解説を加えておきます。
 この事件(日立武蔵工場事件)で最高裁は、労働協約において、「会社は、「1」 納期に完納しないと重大な支障を起すおそれのある場合、「2」 賃金締切の切迫による賃金計算又は棚卸し、検収・支払等に関する業務ならびにこれに関する業務、「3」 配管、配線工事等のため所定時間内に作業することが困難な場合、「4」 設備機械類の移動、設置、修理等のため作業を急ぐ場合、「5」 生産目標達成のため必要ある場合、「6」 業務の内容によりやむを得ない場合、「7」 その他前各号に準ずる理由のある場合は、実働時間を延長することがある」とされていることをとらえて、以下のように判断しています。
 (36協定があり労基署に届け出られている場合には)「当該就業規則の規定の内容が合理的なものである限り、それが具体的労働契約の内容をなすから、右就業規則の規定の適用を受ける労働者は、その定めるところに従い、労働契約に定める労働時間 を超えて労働をする義務を負うものと解するを相当とする」「本件の場合、右にみたように、被上告人の武蔵工場における時間外労働の具体的な内容は本件三六協定によって定められているが、本件三六協定は、被上告人(武蔵工場)が上告人ら労働者に時間外労働を命ずるについて、その時間を限定し、かつ、前記「1」ないし「7」所定の事由を必要としているのであるから、結局、本件就業規則の規定は合理的なものというべきである。なお、右の事由のうち「5」ないし「7」所定の事由は、いささか概括的、網羅的であることは否定できないが、企業が需給関係に即応した生産計画を適正かつ円滑に実施する必要性は同法三六条の予定するところと解される上、原審の認定した被上告人(武蔵工場)の事業の内容、上告人ら労働者の担当する業務、具体的な作業の手順ないし経過等にかんがみると、右の「5」ないし「7」所定の事由が相当性を欠くということはできない」。したがって。「被上告人は、昭和四二年九月六日当時、本件三六協定所定の事由が存在する場合には上告人に時間外労働をするよう命ずることができたというべきところ、A主任が発した右の残業命令は本件三六協定の「5」ないし「7」所定の事由に該当するから、これによって、上告人は、前記の時間外労働をする義務を負うに至ったといわざるを得ない」と判断しています。
 このように、労基法32条の規定により、一般的に1日8時間を超えて労働させることは禁止されているものの、しかし「「1」納期に完納しないと重大な支障を起すおそれのある場合」その他「5」生産目標達成のため必要ある場合、「7」その他前各号に準ずる理由のある場合」には、会社側の裁量で労働者に時間外労働を命じることができるものであると判断しているということです。
 しかしこの判断について、以下の観点からの批判が可能でしょう。

(1) 上記業務上の必要性を誰が判断するのか
(2) 上記基準に対する使用者の判断に対して労働者が異議を唱えることはできるのか
(3) そもそも労働時間に対する法的上限の設定は、使用者が一方的に業務上の必要性を認めることによって(36協定があるとしても)破られるような程度の価値的な位置づけにあるのか

 まず(1)業務上の必要性の判断基準については、まず第一次的な判断は直接的な上司であることはまちがいないでしょう。しかしその場合にも労基法32条の趣旨を最大限尊重して判断されなければならないでしょう。まちがっても「労働者は毎日残業するものだ」などという意識で当たり前のように時間外労働を命じることはできません。
 次に使用者の判断に対する労働者の異議申し立てについてですが、これは現在必ずしもこのことが制度化されている職場が多いとはいえないでしょう。しかし労働者を個として尊重するのであれば、これからその制度設計が検討されなければならないでしょう。
 また「1日8時間を超えた労働」の禁止の趣旨は、価値序列上より高次元に位置づけられなければならないでしょう。

 この問題について、学説においては「時間外・休日労働を命じる業務上の必要性が実質的に認められなければ、命令は有効要件を欠くことになるし、また、労働者に時間外。休日労働をおこなわないやむをえぬ事由があるときには、その命令は権利濫用になりうる」(菅野和夫『労働法 第五版補正二版』(弘文堂2001年)271ページ)とする見解があります。すなわち労働協約で使用者が時間外労働を命じる要件が上記のようき規定されている場合であったとしても、それはほんとうに実質的にそれぞれの要件に該当するのかどうかを吟味しなければならないということです。この場合、この菅野氏の説によるとしても、それを広義に解釈する場合には、時間外労働は常態化することになる可能性が高く(毎日5時の時点で何もすることがなくなってしまうような職場など実際にはどこにも存在しないでしょうし、また上司が勝手に必要性を「認めて」労働者に時間外労働を命令することも可能でしょう)、狭義に解釈する場合には、完全に時間外労働がなくなってしまうという、きわめて広範なグラデーションをともなうものといえます。

 いずれにしても、時間外労働をめぐる最重要判例の1つであるこの日立製作所武蔵工場田中事件(最1小判1991.11.28. 労働判例594号7ページ)は、上記のような枠組みで再検討されなければならず、そのいちばん大切な観点は、いわゆる残業が、生活資金を稼ぎ出すという意味での生活ではなく純粋に人間らしく生活する毎日の労働者の生活にとって当たり前のものなのかどうかが、まず検討されなければならないものです。すなわち人を豊かにするはずの労働という営みは、まちがっても人間の生活をゆがめることは許されてはならないということです。

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