夕日の思い出


 阪急の宝塚線が高架になったことで、夕日にめぐり会うことが多くなりました。それまでは民家が遮って、踏切で道路が西に走っているところぐらいしか見ることは出来ませんでした。いきおい夕日などに心を奪われることもありませんでした。長い高架工事が完了し、利用者には夕日に会えると言う思わぬ付録が転がり込んだと言うわけです。
 私は夕日に遭遇できる時間帯には立つことにしています。六甲山に沈む夕日には、廻りの人に「あの夕日、きれいですね」と言いたくさせる力を感じますが、言えません。声を掛けても、「そうですね、気がつきませんでした。教えてくれてありがとう」なんて、うれしい反応は期待できそうもありませんから。
 六甲山に沈む夕日は本当にきれいですし、西向きのビルや民家,あらゆる物を温かく照らして、心がホッコリしてきます。みんなそんな気持にならないのでしょうかね。もったいないと思います。
 季節は違いますが、私には1950年代の夏の夕日に強い思い出があります。私の育った倉敷の西に岡山県の三大河川の一つ、高梁川が流れています。この高梁川とこれに接している貯水池は格好の水泳場で、毎年夏には市内の小中学生対象に、水泳の学校が開かれました。親父は神伝流の有段者で、泳げない子を一掃するために,若い教師達と情熱を燃やしていました。
 家から約4キロ先の高梁川に親父は弟と私を自転車に乗せ毎日往復したものです。水泳教室は約2時間で終り、指導員は残って古式泳法の神伝流や競泳種目の練習やるのですが、私と弟はそれに付き合うのです。帰りは夕日の中を長くなる影を追うように、親子3人で歌など歌いながら帰りました。
 後に乗った私の背中は夕日を浴びて、冷え切った体がだんだん熱くなり、自転車の振動と水泳の疲れとでうつらうつら、落ちそうにながら必死でしがみついていました。親父は途中の酒屋で必ず「アサヒビール」の冷えた大瓶を買い、私に持たせるのです。当時は冷蔵庫の無い時代でしたから、冷やし賃と言って、冷やし代がプラスされていました。  夕食ではそのビールのお相伴に与かるのも、子供心に楽しみでした。私の夕日の思い出にはビールのほろ苦いホップも味も刷り込みされているのです。

01・12・19記
江口裕之(労働時間短縮研究所所長)


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