「韓国は隣国、隣国を知らずして友好はない」(2)


 これだけは見ておかないとと、出かけたのが「西大門刑務所跡」です。小雨模様の寒い元刑務所は我々を静かに迎えてくれました。通訳をお願いしましたが、あいにく不在で展示物となっている日本語の判決文などで理解に努めました。
 刑務所は1908年10月21日から1989年11月15日に移転されるまでの80年余り使われていました。その敷地内にある歴史館は地下一階、地上二階建で、一階は「追悼の場」、二階は「歴史の場」そして地下は「体験の場」となっています。
 日本の侵略と弾圧に立ち向かって亡くなった朝鮮人民を追悼し、激しくしかも巧妙な日本の植民地支配に抵抗した朝鮮半島の抵抗と闘いを展示しています。当時の日本語の判決文の多くに「強盗」と言う文字があります。本当に「強盗」かどうか、たとえ「強盗」としても、それを理由に死刑の判決を下すなんて無茶苦茶です。生年月日はあって、死んだ日のない経歴もあり、闇から闇へ葬られたことが伺えます。
 途中、「定年後を日本の方にこの刑務所の成り立ちを説明することで、平和への貢献をしようとボランティアをやることにしました」と通訳の方が来られました。以後、通訳の方の説明で隣国韓国を知らなさ過ぎる自分を恥じることになりました。
 昨年日本の刑務所で明るみに出た「身柄を拘束する皮製の責め具」(革パッキン)が展示されていました。朝鮮人民の弾圧に使われていた責め具が民主主義の日本で生き長らえていることに、権力の本質を教えられました。少なからぬショックを感じました。
 我々が学んでいない多くの侵略の事実が説明され、その中で通訳の方が特に覚えていて頂きたいと強調したのは、「1919年の三・一独立運動は日本の激しい武断政治に反対して、朝鮮人民が全国で蜂起した。驚いた日本政府は従来のやり方からより巧妙な文化政治に変え、創氏改名、神社参拝など皇民化政策で朝鮮人民の自尊心を屈辱する政策を強行し戦争へと駆り立てていった」です。
 刑務所の構造は少人数で多数を管理できるよう合理的に出来ており、日本の網走刑務所も同じ構造と言うのも、なんとも辛いものがあります。
 「日本の建てたこの刑務所は戦争が終結した後は韓国の軍事政権下でソウル刑務所として引き継がれ1985年まで死刑が執行されました」「朝鮮にはこの刑務所ができる前までは死刑と言う刑罰はありませんでした。朝鮮という国はそのような国だったのです。この刑務所の歴史を知っていただき、平和のために役立てていただきたい。それがボランテァとしての私の願いです」

江口裕之(労働時間短縮研究所所長) 2003年3月11日記


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