「タヌッキー」救出事件にも無責任社会が見える


 我が家で15年飼ったメス犬が一昨年に亡くなりました。

 純粋の雑種で賢くもなく、平凡な犬でしたが、雑種だけあって丈夫で何でもよく食べる犬でした。我々の残り物を食べてくれたので、地球環境を守ると言う点では今風のエコロジー犬であったわけです。

 学校の行き帰りにの小学生にも人気があり、「チャロ、チャロ」と相手をしてもらえた幸せな犬でした。犬がいることで家族の行動はかなり制限を受けましたが、がんばって伯耆大山や島根の三瓶山の頂上に連れて行ったこともありました。このように家族の一員でしたから、死ぬ時に立ち会うのは大変につらかったのです。もう、犬は飼うまいと、みんな思いました。

 それがどうも変な風向きになってきだしたのです。孫が大きくなるに連れて(今4歳半と1歳半の二人ですが)、「おじちゃん、犬ほしいコール」が会うたびに強くなってきているのです。孫たちはマンションのため、動物が飼えないという可愛そうな環境にあるのも大きく関係しているようです。私はいつも聞こえない振りしている時に、事件が発生したのです。

 それは、7月の初旬でした。長男が彼女とドライブ中に道路をふらふらしている犬を見つけて、交番にと届けたのです。交番が言うには「3日引き取り手が来なかったら、保険所に廻しますから。」 結果は明白でした。「もしもし、お父さん、これから犬連れて帰ってもいい?」「う〜ん、犬?むにゃむにゃ…(孫が飼ってくれと言ってるから、まっ!良いかと思いながらも優柔不断な対応に終始する私)」。

 息子の向こうから彼女の声、煮え切らない私の気持ちを見透かすように「犬、飼ったことがあるのでしょう?」と言い逃れが出来ない毅然とした声が入って来たのです。息子の彼女に嫌われたくないし、孫にも良い顔をしたいし、「好きにしたら」と言っていました。

 連れ帰った犬はけっこうな年で、その上ドロドロで疲れていて、ヨタヨタ歩きなのです。名無しの権犬では困るので名前を付けることになり、われわれは「たぬき」息子は、「おまえは俺に拾われた。ラッキーであるから、名前はラッキーにする」と。二通りの名前になったのですが、ご近所の方は「タヌッキー」なる合成語で呼んでいました。

 孫は大喜びで飛んできて、さっそく散歩。犬を飼ったやってよかったな。あんなに喜んでくれてと優柔不断はそ知らぬ顔。一方、長男は「金のない俺が、何で飼わんといかんのや!」。なんとしても飼い主が居るはずやと、彼女といっしょに拾ってきた辺りに「タヌッキー」の写真付きのポスターを張り出しに精を出しました。

 その甲斐あって、二か月後のある日電話が掛かってきたのです。話を聞いた途端に「飼い主や!」と感じたそうです。30分後に、おばあさんと母親と娘の三人が迎えにきた時に、なんといって呼ぶかジッと聞き耳を立てていたら、「りょう、りょう」と呼んだので、息子はひっくり返りそうになったと。

 「お父さん、これ何かの因縁やで」そうなんです。息子の名前も亮(りょう)なのです。

 フリーターの息子は収入が少ないこともありますが、今回の「タヌッキー」救出事件には少なからぬ問題意識を持ったようです。動物好きの彼女の気持ちは十分するぐらいうれしくて、大事にしたいと思ったようです。

 しかし、「なあ、捨てられた犬や猫を見たら、全部かわいそうや言うて、みんな連れて帰るわけにはいかんやろう」、「動物はかわいそうや言うて、手を差し伸べてもらえるけど、会社から追い出されて、ブルーシートで生活している人にはかわいそう、引き取って面倒を見てあげようと言うことには何でならんのやろう」、「動物を捨てたり、会社から追い出せれんようにすることが大事なのとちゃうか」。


江口裕之(労働時間短縮研究所所長) 2002年9月3日記


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