酒を醸すにかかせぬ手間と時間



 少し前の話だが、GW前半に新潟の長岡に行ってきた。
「新潟の酒蔵に行ってみたい…」と難波の馴染みの店で呟いたことがきっかけで、とんとん拍子で長岡行きが決まったのだ。酒造りからすると時期はずれなのだが、それはそれでおもしろいかもしれない。

 その馴染みの店から長岡の酒屋さんを紹介してもらい、案内してもらう運びとなった。2日間でいくつかの酒造会社、ワイナリー、地ビール会社をまわったが、実はお目当ては久須美酒造。あの「夏子の酒」のモデルとして一躍有名になった酒蔵だ。

 七代目の若い専務さん(漫画でいうと夏子のお子さんにあたる)が丁重にもてなしてくれ、日本酒ができるまでの工程をていねいに説明してくれた。

 酒造りの細かいことはまたの機会に譲るが、今の日本酒は、完全機械化と昔ながらの手法。そして、いわゆる「アル添」と呼ばれる「三倍増醸酒」と「純米酒・吟醸酒」という大きく分けてふたつの潮流があるといえる。

 「アル添」もすべてが悪いわけではない。若干のアルコール添加は酒を飲みやすくなる。ジャブジャブ薄めるからベトベト甘い酒になり悪酔いするのだ。
 完全機械化自体も「悪」でも何でもないし旨い酒もできるのだが、それ以上の酒を醸そうとすると、やはり昔ながらの手造りでないとうまくいかないという。
 その手間たるや、想像を絶するものだ。洗米も浸漬も麹作りも手作業だ。そして温度管理や上槽時期もすべて杜氏の経験がものをいう。機械にはできない人間の手と知恵に依拠する部分が圧倒的だ。そして、人間が手伝うことで米は麹と酵母の力を借りて時間をかけゆっくりと酒になっていく。

 とはいえ、儲けのことだけを考えると、効率と非効率では歴然の差があろうことは誰の目からも明らかだろう。手間隙かけた酒は美味しいが高いし、酔うだけならば安酒はいくらでもある。

 以前、私は「夏子の酒」を読んで、日本酒にロマンを感じた。米に対する夢、酒造りへのこだわり、より高い水準をめざす探究心・・・。そのためには「時間」も当然のごとく必要不可欠だ。

 何でも早くできればいいというものではない。活きたウナギをさばくところから始める鰻屋が今の日本に何軒あるだろうか。そんなことを言っても、昼のランチが出てくるのが遅いとブツブツ言う私もおんなじだ。もっとゆったりと、もっとノンビリとやれないものだろうか。

 久須美酒造の酒蔵の前に広がる「亀の尾」の田んぼに立っている看板に「日本酒は土地の米と水と人情と自然が醸す風」と記してある。何だか、いいよな。

海老原寿哉(労働時間短縮研究所事務局長)
(2002年6月2日記)


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